TNPS! Niiduma☆BLOG

にいづま☆もちこによる細やかな日々を綴ったTNPSなブログです。(THESE NEW PURITANSではありません)

生と死と主観と客観と下痢

半年に一回くらい、ほとんど腹を冷やすのがきっかけなんですが、1時間ほどで終わる下痢になります。

本当に辛い。普段忘れている、下痢になるたびに鮮烈に突き刺さる痛み、吐き気、気が遠くなる感じ。

過去に経験があるので、いつも通りならこの山越えれば終わるはず…、今のを出し切ればおさまるはず…とは思うんだけど、「本当にこれで終わればいいけど…?」という、うんこの囁きが聞こえてくるくらい、終わるのが想像できないほど辛いです。

表面が熱くて内側が冷たいのか、はたまたその逆なのか、判断のつかない感覚の皮膚の上にじっとりとした脂汗を滲ませながら、深夜(のことが多い)トイレに蹲ったりのけぞったり。

「うあぁ〜」「いだだだ」「やばやばやば」「大丈夫…」等、自然に口から漏らしつつ、下からも漏らしつつ…

 

下痢と向き合う時に「寒いほどひとりぼっちだ」という、岩から出られない山椒魚のセリフを思い出します。(井伏鱒二山椒魚です)

 

下痢の痛みはいくら愛し合う恋人同士、親子同士でも分かちあえない。下痢の痛みは痛みを感じている自分にさえどうすることもできず、ただすぎるのを待つだけ…。

ある解説では、山椒魚の悲しみにある種の滑稽さを感じるのは、自己の悲しみや絶望すらも客観視する作者の視線によるものとありました。

死や痛み、悲しみ、恐れ。全て自分の中にあり、自分にしか実感できないものを客観する視線は、それを少し遠ざけることに役立つような気がします。

生と死を語る昔の文学は、辛い時にツイッターで知らん奴が説教してくるみたいな意見や、同調してくれる優しい人の言葉とも違う、人間はずっと同じことの繰り返しなんだという歴史の説得力が加わった客観視なのだと思います。

ツイッターのつぶやきも100年経ったら100年後の悩める人を慰めてくれる客観視になると思います)

辛い事で先が見えない時は、昔の文学を読んで、昔の人もそうだったっつーか人間全員永久にそうなんかもなって思ったり。

腹を冷やして下痢になり、ひとりぼっちでいずれ経験する死の疑似体験、それに耐えて感じる生。

それらを客観することで、辛いことのいちばん辛い時をやり過ごす発想になればいいなと思いました。

 

下痢がつらすぎて、このつらさは何かに昇華できないものか、消化だけに!と思い書きましたが、次の下痢の時には完全に全部忘れてるんだよなあ多分…。

こんなに辛いのに、不思議です。

 

(生と死を語る昔の文学…は、太田光さんのニュース記事で読んだものからとりました)